30年は経たないが、もう20数年も前の話である。季節は忘れたが、そろそろ暮れかかる夕方、日本橋の一等地に本社があるその会社の人事部応接室に、大学生だった私はリクルートスーツを着て座っていた。人事部のT主任に呼ばれたからだった。就職戦線はもはや終盤に差しかかっており、すでに同級生の多くが一流企業への切符を手にしていた。
テーブルをはさんで私の前に座っていたT主任がおごそかな面持ちで言った。
「残念だが、もう予定の採用人数は確保した状態だ。したがって私の一存で君に内定を出すことはできない。君があまりにもしつこいから私の上席にお願いをした。まもなくこの部屋に来る。彼がいいと言えば可能性があるかもしれない。これが最後のチャンスだ。」そして付け加えた。「ただし忙しい人だ。あまり時間はない。」
私は息を飲みながら「わかりました。ありがとうございます。」というのが精一杯だった。
やがてそのオジサンは応接室に入ってきた。ダークネイビーのスーツにきちんとディンプルを作ってレジメンタルタイを締めている。颯爽とした紳士だったが、その姿にはいかにもスキを見せないキレ者といった雰囲気を漂わせている。若くして要職にある同期トップの出世頭だった。オジサンは応接セットの椅子にどっかりと深く腰かけると、隣に座っているT主任をあごでしゃくりながら「このTがな」と口を開いた。
「おもしろい学生がいるからどうしても会ってくれと聞かないんだよ。なかなかいいツラ構えしてるな。」
少し浅黒いオジサンの顔は意外にも穏やかな笑みをたたえていた。私は時間を取っていただいたお礼を丁寧に述べた後、簡単に自己紹介をした。
その後は、とりとめのない雑談が続いたが、もちろん話の主導権は完全にオジサンが握っている。私は焦りながらも「はあ、なるほど」などと頷くばかりで時間が過ぎていく。 意を決して私はオジサンに言った。
「10 分間でいいですから私に下さい。言いたいことを言えればあきらめをつけて帰ります。」オジサンはビックリしたように「ほう」と短くつぶやいたが、やがてガハハハと大きな声で笑うと「聞こうじゃないか。」と私を促した。
準備をしていたわけではない。咄嗟に口をついて出ただけで何を話すべきかその瞬間は何も考えていなかった。ただし、ここでは公開しないが、この時私が何をしゃべったのか今でも克明に記憶している。思い出すだに恥ずかしい内容である。そんなつまらない学生の戯言にオジサンはさもおかしそうに聞き入り、時折「ほーそうか」と笑いながら頷いて見せてくれた。私は話の締めくくりに、
「私を採用したことを絶対に後悔させません。死んだ気で働きます。以上です。ありがとうございました。」と椅子から立ち上がって直立不動の姿勢から深く頭を下げた。
オジサンはまた再びガハハハと大きな声で笑った。そして私を無視するように隣のT主任に向き直って言った。
「Tよ、あと一人くらいいいだろ?こんなヤツがいたら楽しそうじゃないか。」
T主任はうれしそうに「もちろんです。」と笑った。
オジサンは再び私のことを鋭い目で捉えたが、次の瞬間、ニッコリと笑ってゴツゴツした右手を差し出した。
「一緒にやろうや。」という短い言葉がオジサンの答えだった。
私は思わずオジサンのゴツゴツした右手を必死に握りしめたが、声が詰まって言葉が出て来ないもどかしさを感じていた。
時は流れた。本日2012年3月30日。そのオジサンは定年退職の日を迎えた。今朝、私はオジサンの秘書に電話を入れてオジサンのスケジュールを確認し、その後、日本橋の花屋に電話をした。「午後4時15分に取りに行くので花束を用意してほしい」とオーダーを出すためだ。花屋の店員は目的や相手の好みを聞いたが、あのオジサンに花の好みがあるだろうかと想像するとおかしくなった。
20数年前のあの日と同じようにオジサンは応接室に入ってきた。しかし、あの日と違ってオジサンの体は少し丸みを帯びてスキだらけに見える。私が照れながら花束を渡すと
「ばかやろう。こんなことしやがって。」
「ええ、絶対に似合わないとは思ったんですが。」
「どうだい、大学の方の仕事は?」
私は椅子に腰かけて言った。
「おかげさまで。私は今とても楽しくて幸せな毎日を送っています。この会社にいたから今の私があると思っています。つまりあなたのおかげで今の私があります。自分の恩人がどういう顔してこの会社を去るのか確認しに来ました。本当におつかれさまでした。」 ありがとうございましたと言わなければならないのにオジサンの温かい笑顔を見ているうちになぜだか不覚にも声が詰まり、目じりに涙がにじんでしまった。
とりとめのない思い出話があの日と同じようにオジサン主導で続いた。時刻もあの日と同じような時間帯だった。私は
「さてと。業務終了時間まで残り数十分あります。後はご自分ひとりで思い出に浸る時間も必要でしょう。邪魔にならないよう私は帰りますよ。」と席を立った。
オジサンは私をエレベーターまで見送り、あの日のようにゴツゴツした右手を差し出し た。私が握りしめたときオジサンの目じりに光るものがあった。オジサンはそれを隠すようにしてエレベーターに乗った私に向かって最敬礼をした。
「宮川先生、ありがとう。よく来てくれました。」
頭を下げたオジサンの姿を残してエレベーターの扉は重々しく閉じた。
その会社の本社ビルに沿って日本橋駅に向かいながら、今あの日と同じようにして自分 の教え子たちが戦っていることを思った。