人はなぜ群れをなすのか

 釣りをする人は、他の魚の餌になる魚のことをベイトフィッシュ(bait fish)という専門用語で呼びます。海水魚であれば、小アジや小イワシがそれで、鯛のような大きな魚が食べてしまいます。淡水魚であればブラックバスを天敵とするワカサギやウグイです。ベイトフィッシュの群れが来ると、その近くには釣り人が狙う大きな魚がいるというシグナルになります。大きな魚という外敵が近づくと逃げ惑う小魚の群れは丸くなったり、細長くなったりしてその形を現します。
 私が興味を持つのは、なぜ群れの形が作られるのか、です。想像するに、それぞれの個体が外的から身を守ろうとして群れの奥へ奥へと他の魚を押しのけて潜るように泳いでいく結果、自然に群れの形が成型されるのだと思います。群れをなすことは弱い魚にとって生存戦略として正しいことと思いますが、面白いのは群れを作っている一匹一匹は常に自分のことしか考えていないということです。しかも、一匹一匹はその群れがどこを目的に向かって進んでいるかになんら興味を持っていません。
 牧場で催されるシープドッグショーも同じです。牧羊犬が羊を吼えたり、追いかけたりすることによって羊の群れを一方向に誘導し、最後は群れごと囲いに入れてしまうダイナミックなショーは、牧羊犬の賢さとともにメェメェなきながら追われる羊の群れの哀れさが印象を残します。大変失礼な話ではありますが、大学に来て学生の行動を見ているとベイトフィッシュやシープドッグショーの羊を思い出します。周りの人の行動を見ながら自分の行動を決める結果、同じ行動をとる人ばかりになり群れができます。周りがやっていなければ「ま、いっか」と何もしないし、周りがやっていれば「やべえ、やべえ」と人についていく。自分の頭を使わずに他人の顔色や周囲の動きばかり気にしてみんなが同じ行動をとっています。このような現象は、行動経済学でハーディング(herding behavior:群衆行動、 横並び行動)として理解されています1。合理的な観点に立てば、お互いに情報を交換することによって情報が集約され、行動の意思決定は改善するはずですが、自分の持っている情報を全く無視して他人の行動に追随するので、自分の行動に続く他人には必ずしも正しい情報が伝わりません。その結果、集団として好ましくない意思決定や行動が行われてしまうわけです。
 小魚も羊も自分の身の危険しか考えず、群れ全体のことは全く考えません。ただただ自分だけが助かりたいために他人(他魚/他羊)を押しのけて(しかし、他人と同じように)安全な群れの中心に向かって全力で泳いだり走ったりしています。しかも、そのようにして行動しながらも自分たちがどこに向かっているかがわかっていませんし、そもそもその行動が自分の身にとって安全なことかどうかも不明です。羊は逃げ惑いますが、牧羊犬は本当は羊を噛んだりはしません。危険が何なのかもわからずに、自分では何にも確認もせず、ひたすら周りを見ながら行動する姿は人の噂だけを聞いて集団行動に走ってしまう人間も同じです。さらに特徴的なことは、群れの一員になるためにはさほどの努力や能力を必要としないところです。群れに入るだけの標準的な泳力や走力が備わっていれば十分です。誰でも知 っているような容易に入手できる情報しか知らない人たちが集団行動に走ります。また、集団で群れをなしているわりには個々の協力や役割分担もなく、個体の識別は不可能です。
 以前読んだ内田樹氏の著書2には「若者が群れる」という問題意識が書かれており、彼は「リーダーもおらず、ビジョンもなく、ただ群れをなして草を食べているだけというような集団だと、みんなと同じにふるまっていたらある日集団ごと全滅しました、ということだっ てありうる。」と述べた上で、「今の日本のような、地殻変動が起きているときは、むしろ最大集団の方が環境に適応できなくなっている可能性がある。(中略)マジョリティが行ってはいけない方向に逸脱していったからこそ、制度がきしんで、システムのあちこちが綻びている。」と分析しています。
なるほど、そのような危機意識には説得力がありますし、共感するところです。ただ、私の結論はもう少しアイロニーに満ちているかもしれません。すなわち、群れをなすという行 動は生命の遺伝子を残すという本能的な生存戦略として過去も未来も正しいということです。実際にはそう簡単に全滅しません。社会は間違った方向に進むこともありますが、結局 のところその中で間違った存在が生き残ってしまうことがあります。必ずしも間違った存在が淘汰され、正しい存在が残るとは限りません。限定合理的な人間のハーディング現象は、公平な競争によって正しい価格が市場で形成されない現実を説明する理由として応用されています。正しい価格が形成されないため、集団で行動していれば中には価値のない企業が淘汰されずに生き延びたり、能力のない人がリーダーになったりして、社会に非効率が生じます。なにしろ小魚の群れや羊の群れはみんな同じで個体が識別できません。本当の能力の違いや役割の違いは不明です。役割があったとしても、標準的な能力を持った人たちが群れをなしているので、誰がその役割に就いても群れ全体としては影響を及ぼさないわけです。
 これはサラリーマン社会の縮図ともいえます。ごくごく普通の標準的で大差ない能力を持った人々が群れをなしている大企業では、必ずしも優秀な人が正しく選抜されて要職に就いているわけではありません。わかりやすい例で言えば、さまざまな企業不祥事の記者会見を見て「なんであんな人が社長やってんだろう」とか「なんでこんな会社が生き延びてんだろう」と思うことがあります。これらの現象は、私のベイトフィッシュ理論(もしくはシープドッグ理論)による帰結と言えます。無意識に自分のことだけ考えて他人を押しのけ、明確な目的もなくひたすら群れの中心に向かって進んでいった幾千万の個体のひとつに過 ぎないということです。このようにして社会は間違いを犯しながらも存続していきます。
 「ビジョンもなく、ただ群れをなして草を食べているだけ」の人々が集まっている日本の大企業は典型です。大企業では誰が社長になろうと、誰が部長になろうと大勢に影響はあり ません。どの人の能力もさほど変わるものではありません。終身雇用という制度によって群れの一員でいることの問題意識を希薄化するとともに均質な能力を養成し、年功序列とい う制度によって能力評価をあいまいにしてきた結果、決して優秀ではない人が要職に就いても何となく生き残ることができる体制になっています。つまり群れは生存戦略として正しいという証拠です。一見熾烈な出世競争をしているように見えますが、さほどの差がない均質な能力ばかりで識別できない個体による競争なので、実は真の競争原理が働いているわけではありません。仮に派閥や学閥などによる偏った情実人事が多少行われたとしても、大企業の趨勢にはびくともしません。しかも、さすがにまずいだろうというレベルに達するとなぜか何となく群れ自体がそれを修正する能力を持っている点が面白いところです。企業規模が大きくなると経営者が持っている経験や知識といった知的資産を発揮する余地はどんどん低下することがMyers(2000)によって指摘されていますが
³、これは要するにだれが社長をやっても同じということです。
 だからどうするという提案ではありません。現実に起きている現象をいかに説明するかという私の趣味に過ぎないコラムです。ただ、このコラムにわずかな教訓があるとすれば、何が正しくて何が間違っているかは、自分自身が考えた独自の価値観で慎重に評価しなければ、表面的な情報のみに惑わされてしまい、判断を誤るということです。注意しないと群れと一緒に一網打尽にされる恐れもあります。
 ところで、蛇足ですが象の群れは小魚や羊の群れとは異質のような気がします。このことは近いうち動物行動学の専門家に話を聞きにいこうと考えているのですが、個体の識別や目的が不明確な羊の群れと象の群れは対照的にとらえることができるのではないかと思われます。たとえば、象の群れの中心には力の弱い小象を入れて、群れの外には外的から群れを守るように力の強い大きな象が配され、また、群れが進んでいる方向は次の水場という明確な目標を群れの各構成者が共有しています(もちろん象の群れを見たことがないので想像に過ぎませんが)。さらに、その水場をかぎ分ける能力の高い象がリーダーを司るという仕組みになっていると想像されます(単なる想像です)。
企業にもヒツジの群れ型企業とゾウの群れ型企業が存在しているのかあるいはヒツジ的群れとゾウ的群れのどちらの構成員が果たしてより幸せか、これらは次の研究課題となるかもしれません。

Hirshleifer,D.andS.H.Teoh,‘HerdBehaviorandCascadinginCapitalMarkets:AReviewand Synthesis, European Financial Management, vol.9(1), 23-66, March 2003.
内田樹『街場の文体論』ミシマ社(2012 年)35-36 頁を参照。
³ Myers,S.C.[2000],“OutsideEquity,”TheJournalofFinancevol.55(3)pp1005-1037.

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