「こうあるべきだ」は虚しい主張

 ハイ、諸君、こんにちは。ゼミの中でもいつも私が言うことだが、今回は「規範論を捨てよ」という話をしたい。規範論とはわかりやすく言うと「こうあるべきだ」という主張の叙述である。コーポレートファイナンスの分野であれば、例えば「経営者は企業価値の 最大化に努力すべきだ」とか「利益に応じた配当を支払うべきだ」ということになるだろう。規範論を捨てよというのは「理論的にはこうあるべきだ。しかし、現実にはそうなっていない。それはなぜなんだろう。」と健全な思考を開始するところから学問が始まるという意味であり、まー当たり前のことを言っているに過ぎない。にもかかわらず人は顔を真っ赤にして「べきだ」をヒステリックに応酬し合うことが多い。さらに、「べきだ」から先に進まず具体的な次のアクションに結び付かない議論を延々と続けている人が多い。
 こういう人々は現実を見るという科学的思考のプロセスを知らない。現実に起きている現象は科学的なのである。何らかの原因によって現象という結果が起きている。その現象が理論的に説明できないとすれば、現象が間違っているのではなく理論に足りないところがあるはずなのだ。正確な因果関係を分析しながら理論に足りないものが何なのかを考えるところから全ては始まる。現象を批判することが学問ではない。理論的には経営者は企業価値の最大化に努力すべきなのだが、現実にはどうやらそうなっていない。これはなぜなんだろうと考えることが学問である。それを「こうあるべきだ」で終わらせるということは思考の停止を意味している。
 以上は学問の世界では当たり前のことである。しかし、ビジネスの世界では規範論の応酬が多い。例えば「もっと公平な人事制度を導入すべきだ」という規範論で思考が停止している企業である。こういうことをヒステリックに主張されると私は「それで?」と思わず言ってしまう。「それでって!だから問題なんじゃないですか。」というから「問題って?」 と聞き返す。相手はあきれて「人事制度が不公平だということに決まってるでしょ!ホントに問題意識持ってるんですか!」となるのだが、逆にこちらとしては本当に真剣にモノ ゴト考えるつもりがあるのかと疑ってしまう。ここでは、まず「公平な人事制度」の定義付けが必要である。その上で「公平でないにもかかわらずなぜ当社は現状の人事制度を維持しているのだろうか」という出発点から地道な検討を開始しなければならない。
 企業はなぜこうして思考停止状態になるのだろうか。規範論というものは新たな発見ではなく、「だいたいみんなが口にしているわかりきったこと」であることが多い。組織の誰もがわかりきっていることに対して一個人が行動を起こすには実は大きな合理性がない。 なぜならこの事実に敢えて立ち向かうために個人が支払うコストが現状のままでいることのコストより高いからである。結果として現状の非合理的制度が維持される。これはWilliamson(1975)の取引費用理論1によって説明ができる。人事制度が不公平だという議論は正式な会議の場で検討されるまでには相当な時間がかかり、せいぜい会社帰りの飲み屋でグチる程度でしかない。仮に正式な会議の場で検討されたとしても思考のプロセスが粗いと順を追った検討がなされず「やっぱココは思い切って人事制度を変えよう」などということになり、もっと不公平な人事制度が導入されたりなんかする。「だいたいみんなが口にしているわかりきったこと」というのは排他的で有効な反論を受けないことが多い。そういうとき人はどんどん過激になり、異口同音にかぶせ合った議論が発散するのみである。逆にクオリティの高い思考を提供できる人にとってはチャンスとなる。「こうあるべきなのに実際にはそうなっていない現実」の因果関係を詳細に分析し、 現実をもたらした要素に因数分解して行くと意味のある仮説を導き出すことになるからである。これを問題解決能力という。科学的思考はビジネスの場でも有効なのだ。

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